猫がきました。





 午後3時15分。今日も今日とて聞き馴染んだ声で目が覚めた。
「ほら、赤音。可愛いでしょ」
 退屈紛れに社長室の高級ソファで惰眠を貪るロクデナシは、ひょいっと腹の上にのせられた白い毛玉を見下ろして、瞬きをする。
 正確には、それは1匹の小猫だった。
 それも東京府の聖域たる社長室に似合いそうなペルシャとかシャム猫ではなく、どんな人物がどんな観点から検証しても「雑種」の称号を勝ち得そうな、正真正銘の野良猫だ。
 なおかつ貧困な食生活が原因か、痩せているせいで見栄えがしない。けれど悪くない顔立ちだった。下校途中にアイコンタクトしてしまった小学生が「元いた場所に戻してきなさい」と叱られて涙する類の愛らしさ。そろそろ古典の香りすら漂うショチェーション設定。
「へえ。どうせ物好きに拾ったんだろ、お前が」
 興味なさそうに言いながら小猫の両脇に手を差し入れて持ち上げる。
 ぶらんと宙吊りにされた小猫は、ミャウと弱々しく抗議した。
 それを左右にブラブラ揺らしながら、天使の笑顔でニコリと微笑む。
「食いでのなさそうなチビだな」
 瞬間、フットボールのプロ選手もビックリな反応速度で、弓は赤音の手から小猫を取り上げた。
「お前さ、もうちょっと多面的な視野とか異文化コミュニケーションを志す姿勢とか持てよ。そんなんじゃ中国に亡命しても飢え死にするぞ」
「そんなこと言って偏見に溢れてるのは赤音の方じゃない。それに赤音がチビとか言っちゃっていいのかなぁ」
「ぱーどぅん?」
 思わずボソボソ付け足した弓に向かって、見事な外人発音の赤音が訊ねる。
 顔には笑顔が張り付いたままだが、額に浮かんだ血管がビクビク痙攣していた。瞬間的に危険を察知した弓は、足元に小猫を下ろして回れ右する。
 先ほどメイドに揃えてもらったペット用品を点検しながら、やっぱり首輪くらいは自分で選びたいなとか思った。
 それとも、いっそオーダーメイドにした方がいいかもしれない。
「てゆーか、いいのかよ? そんなナマモノ社長室に持ち込んで」
「もう赤音がいるんだから1匹や2匹変わんないよ」
「……いい度胸してんじゃねぇか、お前」
 よーし今夜は寝かしてやんねぇとか不吉な台詞を呟いた赤音は、どうやら逃げそびれたらしい小猫を捕まえて、ガシャンガシャンと音がしそうな感じで前足を操縦桿のように動かしている。
 もしかすると遊んでやっているつもりかもしれない。
 ……そんなわけないが。
 窮状を訴えるつぶらな瞳には気づかなかったフリをして、うーんと弓は目下の問題に取り組んだ。
 トイレやボウルをセッティングするにあたって、元から小物の多い部屋だけに判断に迷う。なんとか「これでよし」と納得できる場所が見つかり、そういえばと思いついて背後の愛人を振り返った。
「名前、どうしようか?」
 できれば赤音につけてもらいたいな、とか考える。
 けれど惰眠タイムを再開したヒトデナシは、狸寝入りかそうでないのかグースカ寝息を起てている。
 ガッシリと細腕の中に捕まった小猫が、さらに弱々しい声で生命の危機を訴えていた。
 どうせ起きてたってゴルバチョフI世とか殺戮フライパンとかタマとかミケとか、意味不明でテキトーでフザケタ名前しか返ってこないのだろうが。
(いいや。この子の名前はアカネにしよう)
 もしも本人達が聞いたら死ぬほど嫌がりそうな決断を胸の内で密かに下して、いまいち苦労症な飼い主は1人と1匹の姿を眺めた。
 午後3時46分。また1匹、社長室にペットの増えた瀧川商事の日常だった。