ねこねこパニック。





 伊烏義阿は捨て猫が苦手だ。
 汚いとか見苦しいとか、そういう類の理由ではない。
 むしろ逆に拾いたくなるから嫌なのだ。
 これで彼が、満足に飼い猫を養える環境にいたなら、何の問題もない。だが、道場暮らしである現在はもちろん、家族の元で暮らしていた幼少の頃でさえ、残念ながらペットを飼育できる環境になかった。
 「元いた場所に返して来なさい」と叱られた時の、引き裂かれるような辛さと悲しみは、今も胸の奥に宿っている。
 また不可抗力とはいえ、信頼を裏切られた猫の側からすれば、彼は血も涙もない極悪人に違いなかった。
 そんな罪悪感からか、三日三晩夢の中に件の猫が出てきて、恨みがましい目つきで睨まれ続けた経験がある。
 己の非を知っている伊烏としては、「すまなかった」と謝るより他すべがない。
 だから捨て猫の気配を察知した時には、なるべく視線を向けずに、可能な限りの速度で、せかせか通り過ぎる事にしていた。結果として鹿野道場の門弟衆には、捨てられた動物を厭う意外な冷淡さ、と認識されたようである。
 だが今さら誤解を晴らす必要性も感じなかった。
 そんな彼に限って、星の巡り合わせなのか、「さあ、拾え」と言わんばかりの高確率で、ダンボール箱と子猫の組み合わせに遭遇する。
 だから日頃から警戒は怠らない……はずなのだが。
 だが今回は不意打ちだった。
 原因は、同行者となった武田赤音である。
 気のおけない後輩との会話に気をとられた伊烏は、電柱の影に潜む存在に気がつくのが遅れてしまった。


 ミュウ。


 だから、その鳴き声を感知した時には、すでに手遅れだったのである。
 捨て猫だ、と脳が認識した瞬間、両足が金縛りにでもあったように硬直してしまった。
 つぶらな瞳と視線があう。
 追い打ちをかけるように、ミャアッと鳴かれて、伊烏は激しい良心の呵責を覚えた。
 だが、やむなく心を鬼にすると、アスファルトから釘を引っこ抜く要領で、右、左、右、左、と足を進め、
「あ、猫だ」
 突然くるりとUターンした赤音は、思わず仰け反る伊烏を横目に、軽い足取りで磁力の中心に歩み寄ると、ひょいっと子猫を抱き上げた。
「可愛いですね、こいつ。げ、雄じゃねえか」
 なぜだか顔をしかめて言うと、ひょいっと元通りにダンボール箱の中に戻した。
 そのまま踵を返して、スタスタ歩き出した後輩の背中を、半ば唖然とした心境で眺める。
 もしかすると、自分と他人の間では、異なった重力法則が働いているのかもしれない。
 ……そんなわけないが。
「もしかして拾いたいんですか? 師範代」
 子猫から顔を背けるためだが、無意識に下を向いて歩き出したため、危うく小柄な背中と衝突しそうになった。
 じっと翠緑の猫目に見つめられ、思わず伊烏は頷いてしまう。
 それを見た赤音は、しばらく考え込んだ後、やおら電柱まで引き返して、ひょいっと子猫を抱き上げた。
「てことで、帰りましょう」
「……おい、赤音」
「何です?」
「道場では、猫は飼えんぞ」
「二三日預かるだけなら大丈夫でしょ」
「いや、だが、そう簡単に飼い主が見つかるとは」
「大丈夫ですよ。すぐに見つかりますって。すぐにね」
 歩きながら振り向いた赤音は、まるで天使のように爽やかな笑顔だった。
 だが、なぜだか語尾に邪悪な響きが篭ったように感じるのは気のせいだろうか。


 肯定するように、ミャウッと腕の中で子猫が鳴いた。


 明くる日の朝、鹿野道場の門前には「子猫の飼い主を探しています。オマケとして当道場の鬼才、伊烏義阿と一日デート。今なら武田赤音のサポートつき」と書かれた顔写真つきの立て札がたった。
 結果として、その日の午後には、町外れの道場に、妙齢のお嬢さんから商店街の小母さんまで、ありとあらゆる女性が殺到して盛況を極める事態となった。
 ちらほら男性の姿が見受けられるところに日本の行く末を感じられる。
 どんなに希望者が集っても子猫は一匹だけなのだが、あわや暴動になるかと思いきや、類稀な即効反応能力をもつ武田赤音の手腕によって、オークション形式の落札となった。


 結局、あの子猫が幸運だったのか不運だったのか、それは今もわからない。


 そして怒涛の騒動を乗越えた伊烏義阿が、もう二度と捨て猫を拾うまいと心に決めたかどうかは、やはり神のみぞ知る話であった。


 おしまい。