black sheep




 骨になっても待てるなら、恐れなぞいりはしなかった。




 夜毎に繰り返し、悪夢の中で腐敗する。
(指先から拡がる死斑の)(角膜の混濁と臓器の融解)(死滅した細胞と)(湧き出した蛆虫の)
 膚と肉を喰い破る蟲が、青白い胴を蠢かせ。
(指が、手が、腕が、肩が)
 喩えるなら腐食液で溺れる鉄の酸化に、その夢は似ている。
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――嫌だ)
 声も言葉も出せず、ただ吠える。



 ――――――伊烏。



 PiPiPiPiPiPiと携帯電話の着信音で目が覚めた。
 バネ仕掛の動作で跳ね起き、溺れた者のように息を吸い込む。
 不自然に収縮する喉から喘息めいた音が漏れた。開いた毛穴から汗の噴出する不快感。
 酷い悪寒が背筋を凍らせ、鳥肌は立つのに汗は止まない。
 珍しくカーテンの引かれた社長室は、暗室めいて濃密な闇に塞がれている。
 広い室内に彼以外の気配は無かった。脱いだ小袖がソファの背に掛けられている。
 規則正しい秒針の音が、姿の見えない時計の存在を主張していた。
 まずは部屋主の不在に安堵してから、頭の中を空にするため深呼吸する。
 無理やり呑み込んだ絶叫が、胸の奥で暴れ狂って心臓の動悸は耳障り。
 小刻みに震える指で着信履歴を確認すると、青く発光した液晶画面に、病に臥せる“姉”の名があった。
 悪夢の続きに想えるが、少なくとも電話を出来る程度には健在らしい。
 無意識に握り締めていた拳を開くと、深い爪痕に血が滲んだ。
 理屈の通じない恐怖ほど性質の悪いものはない。
(生いれば、老いる。それが摂理だ)
 だが何より技の衰えを厭う剣鬼にとって、ただ老いる事は恐怖でしかない。
 日毎の鍛錬は欠かさずとも、遠からず老いはやって来る。
 現に幾ら外見は子供らしくても成年を迎えた自分は既に大人だ。
(子供は、大人に)(老人は、死屍に)(白骨は、灰塵に)
 何者も過去の形を留める事など出来はしない。可不可を問うまでもない、絶対的な不可能だ。
(まだ四年。やっと四年。ようやく四年)
 もう余年。



 ――――――――伊烏。



 日毎に、夜毎に、呼び続ける。
(何をしている?)(何処にいる?)
 眼球に染みる汗をシャツの裾で拭い落とした。
 暗闇に鏡は見当たらないが、きっと顔色は蒼白だろう。
(暗くて昏くて、暗すぎる)(何も見えない)
 馬鹿で惨めで愚かで無様で――狂おしい。



(――――――――伊烏)



 呼べば、応える。
 待てば、来る。
 疑ってなどいない。いないはずだ。



「必ず殺す。俺は必ず貴様を殺すぞ、赤音」



 あれは契約だった。違えられはしない。
(お前は、老いない。死にも、老いも、殺されもしない)
 妄執が生んだ狂信が、唯一の真実を形作る。必ず彼は自分を迎えに来ると。



 ――――――――伊烏。



(きっと、どこかで)
 それは何処だ?
(きっと、いつか)
 それは何時だ?



(無様で愚かで惨めで阿呆で――狂おしい)



 疾く早く速く、きてくれ。
(病いに、老いに、殺される前に、一刻も早く殺しに来てくれ)
 祈るように、請うように、願うように、乞うように――恋うように。



(――――――――伊烏)



 震える指を離れた携帯電話が、ゴトリと鈍い音を起てた。
(ひとは誰しも、終には白骨)(生まれ、老いて、ただ死ぬだけだ)
 それだけの事が、これほどに。
(恐ろしく、怖ろしく、畏ろしく)
 闇夜を裂いて哭き叫びたかった。これでは月夜に吠える畜生と同じだ。


(おれは此処にいる)(此処にいる)(ココニイル)



 ――――――――伊烏。



 生き続ける事は、腐蝕と同義だ。
 待ち続ける事は、悪夢と同義だ。



(まだ四年。やっと四年。ようやく四年)



 胸の内に閉ざした吠き声は人語をなさず、応える者も聞く者もなしに。




 ――――――――もう余年。