水背負フ





 いけない いけない
 静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
 まして石を投げ込んではいけない


 時折、と会話の節目に彼女は言った。
 まるで呼吸するような自然さで雨音混じりに声は聞こえる。
「赤音さまが、実の弟のように思えます」
 形やら色やら鈍った六月に、薄闇の影に紫陽花の青が滲んでいる。
 いつも彼女の傍らには清楚な白花の香る気がした。
 それは単なる彼女に抱いた好意の生み出す錯覚かもしれないが。
「お気を悪くなさらないでくださいね」
 そう慌てたように付け加えた道場主に、話し相手である少年は、ひときわ朗らかな笑顔で応えた。
「いいえ、嬉しいです。おれも三十鈴様が姉さんだったらと思いますから」
 たちまち頬を染めた少女が、心から嬉しそうな微笑を見せる。
 ひやりと湿った空気の中で雨樋の咳き込む音が聞こえた。
 今にも降り止みそうで、なかなか止まない水音が、墨色の空に撒き散らされる。
 ふと顔を上げた視線の先に、雨濡れた庭を散策する、見慣れた長身の背中があった。
 考え事か、それとも単にぼんやりしているのか、ふたり縁側に並んだ彼らに気づく様子もない。
 いつしか幻の芳香は消えて雨の匂いと判らなくなる。
「――伊烏は?」
 無意識に訊ねた言葉だった。
 まるで独り言のように、けれど明瞭な輪郭をもって足元に落ちる。
「伊烏さまは……」
 それきり言葉の先は途切れ、降り続ける雨に紛れて消えた。
 肩を寄せ合う二人の影は、何もかも曖昧に濁る雨空の下で、本当の姉妹に見えなくもない。
 結局、何処からも答えは返らなかった。
 ……その時は、まだ。


 いけない いけない
 静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
 まして石を投げ込んではいけない


 そんなあぶないものを投げ込んではいけない




引用文献 : 高村光太郎 「おそれ」