笑う咲う嗤う





(ねぇ、笑い声なんて初めて聞いた気がしたんだ)


 ゆっくりとプールの底を蹴るように無から意識が浮上する。
 しばらく瞼を閉じたまま部屋中に撒き散らされる雨音を聞いた。
 地表から隔絶されたこの部屋に滴の砕ける響きはない。
 けれど街の喧騒からは遠く鼓膜に届くのは雨音のみだ。
(物質搬入用のトンネル)(衛士三名と桂葉恭子)(鉄錆びの、血液の、臓腑の)(不吉に凍えるアスファルトの路面)(死骸と亡骸、屍骸、四骸)
 心地良い温度に包まって、両目を閉じたまま左手を伸ばす。
 期待に反して求める体温は傍らになかった。敷布にも枕にも彼の温もりは残っていない。
 両の瞼を引き剥がすように視界を開ける。そっと顔を倒して雨音の方に顔を向けた。
 開け放たれたテラスを背にした赤音は、ぽつんと一人で将棋盤を睨んでいる。
(物質搬入用のトンネル)(衛士三名と桂葉恭子)(鉄錆びの、血液の、臓腑の)(不吉に凍えるアスファルトの路面)(死骸と亡骸、屍骸、四骸)
 室内の灯は暗すぎて、表情を読むことは出来そうにない。

(あのさ、赤音。ひとつ聞いてもいいかな?)

 声には出さずに心中で呟いた。息を吸い込むと仄かな雨の匂いがする。

(たぶん赤音は、僕の前で心の底から笑ったこと、一度もないよね)

 笑わないのか。笑えないのか。
(どっち?)(どっちも?)
 今まで気づきはしても、深く考えたことなんて、なかった気がした。

(物質搬入用のトンネル)(衛士三名と桂葉恭子)(鉄錆びの、血液の、臓腑の)(不吉に凍えるアスファルトの路面)(死骸と亡骸、屍骸、四骸)

 わらっていた。
(吹き出し、哄笑して、腹を抱えて)
 まるで鈴を転がすように。嬉しくて楽しくてたまらない子供のように。
(ただ、ひとり)
 ――なんで?



「臓腑でも何でも、目でも鼻でも耳でも舌でも、お前だったらくれてやる」



 笑えない。笑わない。
(どっち?)
 たぶん、どっちも。



(ねぇ、赤音はさ、僕に笑顔ひとつくれないよね)
(ねぇ、僕はさ、赤音に笑顔ひとつあげられないよね)



 もう一度瞼を閉じて脳裏に漂う眠気を吸い込む。
 決して濡れない部屋の中で、けれど雨音だけは途切れず続いた。

(物質搬入用のトンネル)(衛士三名と桂葉恭子)(鉄錆びの、血液の、臓腑の)(不吉に凍えるアスファルトの路面)(死骸と亡骸、屍骸、四骸)

 そこには四つの死体があった。
(殺意ガアリ闘志ガアリ憎悪ガアリ妄執ガアリ悲嘆ガアリ狂気ガアリ歓喜ガアリ)
 そして確かな微笑があった。




「お前なんだろ」




 たった独つの。