夏は来ぬ





 卯の花の匂う垣根に、時鳥
 早もきなきて、忍音もらす、夏は来ぬ


 ジージリジリジリ ジージリジリジリ ジージリジリジリ


 相変わらず蝉の声が喧しい。
 珍しく稽古の帰りに縁側で寝転ぶ朴念仁を見つけた。
 汗まみれな道着姿のまま、その傍らに膝をついて座り込む。
 鼻でもつまんでやろうかと思うが、あまりに心地良さそうな寝顔だったので止めにした。
「やーい、根暗」
 代わりに顔を近づけて、ぼそりと囁いてみる。
 たとえ意識がなくても不愉快なことに変わりはないのか、たちまち眉間に深々と溝が刻まれた。
「ねくらねくら、ね―く―ら―」
 なおも歌うような節回しで口ずさむ。
 ますます深度の増す眉間を見下ろして、ふふんと鼻で笑った。
 ざわ、と葉群を鳴らして風が駆ける。
 しばらく一匹で鳴いていた蝉は、やがて幾重にもなって残照の空に溶け出した。
 蝉時雨と共に日暮れの風が、薄茶の髪を吹き抜ける。
 青すぎる空は色を弱め、陽射しの色も減衰した。夕涼みの名には相応しい。
「おい、赤音」
 思わずぎょっとして口を噤んだ。
 だが、それきり起き出す気配もなく、再び規則的な寝息が始まる。
「……なんだ、寝言かよ」
 僅かに脈拍の乱れた心臓が、理由もなしに不愉快だ。
 やっぱ顔に落書きでもしてやろうかと思うが、ひとまず後回しにする。
 ふいっと顔を背けて陽の翳る庭を眺め下ろした。
 光が、光りながら、暮れる。
 盛夏に夕焼けは訪れなかった。
 まだ夕陽の朱は空の青を焼かない。
 色素の薄い髪が微風にそよぎ、汗ばんだ首筋をすっと冷やした。


 ジージリジリジリ ジージリジリジリ


 変わらず蝉は鳴き続けている。


「うるせえな」


 ぽつり、誰にともなく独りごちる。
 応えるように、何処かの軒に吊るされて、硝子の風鈴がちりんと鳴った。


 楝ちる川べの宿の門遠く
 水鶏声して、夕月すずしき、夏は来ぬ


 ジージリジリジリ


 夏は来ぬ。



引用文献 : 佐佐木信綱 「夏は来ぬ」