不快指数NO.1





秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず


世阿弥 『風姿花伝』




 たとえ北陸と言えども夏は暑い。それが日本の鉄則である。
 そして気温の上昇に比例して脳内の理性も侵食される……わけではないが。
 とくに残暑の厳しい九月となれば、とっくの昔に脳細胞が死滅していて不思議はなかった。
 そんなわけで今日も沸点を超えた青少年が、こんな光景を繰り広げたりする。
「あの、俺、あか、赤音さんのことが、ずっ…ずっと好きなんです!」
 何時しかヒグラシも鳴き始め、平穏無事に稽古も終えた鹿野道場。
 面篭手を外した途端、それまで発散できなかった熱気が押し寄せ、控え目に表現して死んだ方がマシな気がした。
 兄弟子の伊烏義阿が不在である今日、ことさら武田赤音の稽古は厳しい。
 いくら剣技に一目二目も置いているとは言え、多分に子供臭い青二才にビシビシしごかれるのは不愉快だった。
 反面、どれほど手荒く稽古をつけられようと、不平を漏らす命知らずも存在しない。
 誰しも想像するだけで膝が震える。
 だが己の意気地なさを咎めるには、いささか相手が非人間的すぎた。
 しょせん中身は武田赤音だが、外見だけならアレなので、昔から言い寄る男は数知れない。
 だが、こうまで人格が破綻していれば、幻想の入り込む余地など何処にもない……はずなのだが。
 それが、ある所にはあるのだ――それも、多分に。
「で、ですから、俺は、その!」
 たとえるなら沸騰するヤカンのように顔を赤らめ、現時点いちばんの新入がそう叫ぶ。
 若いとは言え赤音より年上だ。
 だが傍から見て気の毒になるほど全身に緊張をみなぎらせている。
 反して見物に回った門弟達の間には「あーあ言っちゃったよ」とでも言いたげに投げやりな空気が漂っていた。
 しんと隅から隅まで沈黙が落ちる。
 あとは野となれ山となれと覚悟を決めた新入は、胃の腑を締めつける緊張に耐えた。
 そして唐突に、にっこり赤音は笑みを浮かべる。
 思わず見惚れてしまうほど、芸術的な笑顔だった。
 うぶな少年が見たら、後々まで初恋の思い出になっただろう。
 そんな表情のまま、パンッと竹刀で肩を叩き、まだ声変わりもない声で告げる。
「ならブリーフ一丁に水玉ネクタイしめて、ついでに白靴下もはいて町内一周してみせろよ。おれのために」
 ビュゴォオオオオと氷点下の風が吹き抜ける。
 その一撃で灰塵と化した新入の肩を、ポンポン兄弟子達が次々叩いて慰めた。
 そんな光景を、はんっと鼻で笑った最凶の男は、くるりと踵でUターンして
「お帰りなさい、師範代!」
 一転して、まるで花のような笑顔を浮かべると、猛ダッシュで兄弟子の元に駆け寄った。
「ただいま、赤音」
 いつも通り子犬のように出迎えられ、思わず伊烏の口元が緩む。
 だが周囲に漂う異様な雰囲気に気づき、怪訝な顔で眉をひそめた。
「……何かあったのか?」
「いいえ。ただ、みんな暑さで疲れてるだけですよ」
「そうか。ならいい」
 どこか殺意にも似た空気に気圧されながらも、親友第一の朴念仁はすぐ納得して頷いた。
 次から次へと新参者が武田赤音に惚れる原因、それすなわち伊烏義阿に対する「猫かぶり」に他ならない。
『騙されてるぞ、アンタァアアア!』
 門弟一同、声を揃えて怒鳴りたい衝動に駆られたが、すでに気力は尽き果てていた。
 すべては終わりゆく夏のせいかもしれない。
(これでいいのか、鹿野道場!?)
 強く強く胸の内で思ったが、誰一人として口には出せない。
 遠くから聞こえるヒグラシの声には、どこか物悲しい響きがあった。



 めでたくなし、めでたくなし。