【残花】,壱 |
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「―――――瀧川の子飼いの紅は、鬼のように強いという話」 空気が、その一瞬で変わった。 ゆるりと振り向くと向き直る。男は肩に当てていた刀を軽く投げると手の上に落とした。鞘を掴みすらりと引き抜く。抜き身の刃が明らかになり、曇天の下でさえ、僅かな銀光を反射した。男は鞘をそのまま捨てると静かに構える。構えは正眼。揺らぎなく止まった刃と、その向うの黒目が男の実力を告げていた。その様を緑の目は静かに見ていた。殺意を受けて直、そのぼうとした瞳は変わらない。ここではない何処かを見ているかのように、ただ剣を握る男を遠いもののように見ている。 その瞳が見ているのは虚だ。ふっと刀に目をやり、それからその眼を細めた。 ふっと目を瞑る。その瞬間に風が吹き髪を散らす。 低い声で、男が言った。 「――――抜け。屍であろうと、刀を下げているのならば抜くことはできよう」 その声を聞いて初めて手が動いた。細い手が柄を掴むと刀を抜く。ゆるゆると滑り出るその様は愚鈍だ。しかしそれでも刀は引き抜かれる。現れ出た刃。それを見て男が息を呑んだ。その色は男と同じ銀光ではない。刀を扱うものならば許されないよう仕舞い方だった。その刃は血払いさえ済んでいない。黒ずんだ紅の向こうで鈍く鉄が光る。 刃が空を切って落とされた。紅の着物に刀が添い、ぴたりとその動きを止める。 「………面白い」 男が呟いた。二つの視線が交錯する。片方は嬉々とした殺意に溢れ、もう片方は何の思いも無く虚を見つめる。弱い風が吹く。吹ききるその僅かな間だけ葉を鳴らして通る。ザッと響いた音は男が葉を蹴った音だ。迷い無い疾走と同時、赤音は腕を上げる。細い手が迷いなく刃を天に向け刀を横向きで掲げる。刀が鳴る甲高い音が響いた。二つの刃がぶつかって鋭い音を鳴らす。細い腕が上げた刀。それは渾身の一撃を受け止めながら折れてはおらず、揺らいでもいない。男の髪が揺れる。その下で瞳が殺意に嗤う。視線が交錯して一瞬、刀に一度力を込め、地を蹴って直ぐ男は後ろへと跳んだ。体制を崩さす直ぐに刀を構える。降り積もった葉が音を立てて鳴る。既に風が吹きやんでいる中、男は訝しげに眉を潜めた。 赤音は、掲げた刀を下ろしてはいなかった。 男が攻撃の手を休めて見つめていると、ゆっくりと赤音はその手を下げた。ふっと刀を振る。また最初と同じように刃がその横に添う。紅の着物の横で黒ずんだ刀が止まる。 しかし男は、今度はそれを見ても笑いはしなかった。 「――――舐めているのか?」 怒りの混ざったその声を、赤音は聞かない。 ただ最初の一撃が男の実力を物語っていた。 手だれではある。それなりの腕ではある。舐めて掛かっては敵わない相手である。 だが、それだけだ。 ―――――所詮、伊烏には届かない。 それだけで、男の存在は赤音にとって路傍の石以下の存在に落ちた。相手に対する興味はない。それどころか、この戦いのことでさえどうでもよかった。ただ夢のようにぼんやりと体が刀を振るうのに任せている。それだけだ。 あの日以来初めて抜いた刀は重かった。かつて己がこれを振るっていたことが信じられない。それほどに鉄は重く。けれども、その理由は知っていた。 あの日、この刀は死んだのだ。あの最後の戦いを最後に、その命を終えた。刀に魂というものがあるのならば、それはあの一瞬で費えた。 費やすに相応しい戦いがあり、そしてそれは終わったのだ。 ふっと視線をやる。剥き身の刃に付いた紅。こびりついたまま剥がれない色を見て、その眼が僅かに揺らいだ。 今は、それだけがあの夜の証だった。 男が地を蹴った。二人の間の距離を一瞬にして疾走する。足場は悪いがそれは相手もこちらも同じ。柔らかい土の上で葉が鳴る。袈裟に切り下ろしに来た刀を弾く。甲高い音を立てて、振り下ろされた刃と振り上げた刃が交錯した。その一瞬、僅かな熱と光が散る。もう一度刀が威力を殺さず、そのまま上へと上げられる。対して体が自然に動いた。後ろへと一瞬、下がるとそのまま男の空となった胴を狙う。しかし、それは簡単に読めること、男はそれを半歩下がるだけで交わす。 前髪を僅かに切り落とした刀を引き戻す。次の瞬間、こちらの胴を払いに来た刀を交わし、後ろへと跳んだ。 鉄の匂いを感じた。頬を滑り落ちる熱い流れを感じた。血が肌の上を零れ落ちる。肉が裂けていた。そこから零れ落ちる血を感じながら、しかし危機感はまるで沸かなかった。ただ刀の重さと、相手の刀を防ぎ続けた体の熱を感じていた。 風が吹く。男が、歯噛みして呟いた。 「愚鈍―――――」 もう一度地を蹴る。その疾走を余すところなく赤音の眼は捉える。奔る男。その速度は遅くはないが、自分はもっと速い男を知っている。幻のような一撃を知っている。いや、もしや幻なのかも知れないような高みの技を知っている。その身に男の動きは鈍い。しかし、最早死んだ刀は動かない。それは己の一部ではなくただ重い鉄だ。それでも腕が動くのはなんの未練があるのか。空を切って切り落とされた一撃は重く。目の前で火花が散った。刃が軋む。掬い上げるようにして受け止めた一撃。策も何もない一撃だった。ただ怒りのままに振り落とされたそれを、それでもただ愚直に受け止めた。斬るという行為が思いつかない。ただ無駄に体が生きようとする。それを止めないだけだった。 軋む刃。その向こうで男が歯噛みする。それでも尚、その様を何か遠いものを見るかのように見ていた。 「愚鈍、愚鈍、愚鈍、愚鈍――――ッ!」 刀が鳴った。男がまた後ろへと下がる。目の前に刃が振られた。けれども怯めば直ぐにそれは胴を薙ぎに来る。易い誘いに掛かることなく、それをただ無言で交わした。茶色の髪がそよぐ。薄い色の髪が、動きによって揺れ、同時に弱い風に吹かれる。男の目は怒りに満ちている。刀を自ら振るわず、ただ守りのみに赤音は振るう。頬から流れた血が喉まで落ちている。その滴が散り、宙に紅が舞う。一歩一歩受けるたびに斬るよりも更なる無茶を来る返す刀は、その度に最後の時が近づいて軋み僅かながら歪む。 「――――――こんなものか。こんなものだというのか」 赤音は、その怒りに満ちた声を聞かない。心の底からの仕合を望む声を聞かない。ただ刀を振り続ける。男の殺意溢れた一撃を恐れることなく、しかし返す気さえなく受ける。男の声が憎悪に染まる。やがて、それは侮蔑へと変わる。 「貴様はこんなものだというのか、この程度に過ぎぬというのか」 歯噛みしながら己を責める声を赤音は聞かない。男が刀を振り下ろす。憎憎しげに男は言う。殺意を憎悪に変え、それをやがて失望に変えて心の底から搾り出す。 もう一度刃のぶつかり合ったその時、男はその言葉を言った。 「こんなものに、矛止の伊烏が敗れたと言うのか――――ッ!」 ―――――瞬間、時が止まった。 ギィンッと甲高く鳴った音と共に男が後ろへと跳んだ。予想せず弾かれ、そして流された一撃に男は体制を崩しかけるが無理やり立て直す。それは絶対的な隙だったが、しかし相手はそれを突かなかった。ヒュンッと鋭い音をたて刀が振られる。はっと顔を上げると同時、こっちを向いて刀の先が見えた。鋭い先端を晒すその刃は黒赤に濡れた鈍い色。その向こうで緑の瞳が男をしかと睨んでいた。さっきまで虚を見ていた瞳とは思えぬほどに強いその視線に、知らず喉が鳴る。唾を無理に飲み下しその様を見る。それと同時、硬く紡がれていた唇が音を紡いだ。 「――――今、何つった………」 それは、あまりに先ほどまでの様と違った声だった。 「何を――」 「何でテメェが伊烏のことを知ってんのかってんだよボケナス」 「―――なっ」 あまりと言えばあまりの物言いに男が思わず息を呑む。しかし、それを赤音は許していなかった。その瞳が強く男を睨む。凶暴な光を湛えた視線。それは、男が答えないことを許していなかった。その柄を握る手が変わっている。今まであまりに重そうに刀を使っていた指が今や自然に柄を掴んでいる。まるで己の一部であるかのような自然さで刀を持っている。 紅い着物が急に映える。今まではその細い肩を覆うだけだったそれが、傲慢なほどにその身に添う色となる。今まで自分の見てきたものが抜け殻だったと始めて知る。そこにいるだけで虚であったのだと始めて分かる。 それは、緋色の鬼だ。 それに息を呑みながら男は答えた。 「―――桂木の殺害……そこに残された異様な殺害後。そして、【悪竜】八坂を打ち倒したという魔剣のことは、今の瀧川には知れている…それで畏怖を抱かぬ剣士などいなかろう……ただ、ただそれだけだ」 言葉を選んで男は答えた。その声には眼に見える怯えはない。しかし、気おされていることは確かだった。その様を見ながら赤音は問う。その声は傲慢に男に問う。 「そうか、そんだけかよ―――で、もう一つ、聞きてぇことがある」 チャキリと刀が鳴る。向けなおされる刃。その向こうで、余りにも冷たい眼が光る。 「テメェ――――伊烏を馬鹿にしたか?」 その声はそれそのものが剣のように、鋭く響いた。 臓腑を抉るような鋭さの声。瞬間全ての音が死ぬ。風が死に、空気が死に、全てのものが死に絶える。そして、それを受けて男は―― 「あぁ、した――――」 刀を握り締め、事も無げにそう答えた。 「だが、それは間違いだったようだ」 男がゆらりともう一度刀を構える。その様に既に気おされた様子はない。一度呑まれかけた男は、しかし既に己を取り戻していた。刀を構える。その様は揺らぎない。その声には怯えはなく、しかし震えていた。歓喜がそこから溢れ出す。拳が強く柄を握る。 風が吹く。紅の着物と男の髪を揺らす。歪んだ刀をもう一度赤音は構えなおす。薄茶の髪が揺らぎ、二つの視線が交錯する。 初めて、互いが互いを見詰め合う。 「伊烏義阿、初めてその存在を知り、この世に魔剣を究めた者があると知ると同時、それに畏怖を抱いた。恐怖した。だが、同時に……渇望でもあった。貴様が、貴様が打ち倒したというのならば―――」 打ち倒した。それを聞いた瞬間赤音の顔が歪んだ。しかし男はそれに気付かない。ただ己の望みを叫ぶ。己の思いをぶちまけ、そして同時に地を強く蹴る。 「畏怖を抱き、そして見えたいと思うがっ、願うがっ! それこそが剣士であろうッ!」 叫びと同時に男は走る。先ほどより比べ物にならぬほどに速い疾走。しかし、その様を寸分たがわず赤音は捉える。それよりも速い男を彼は知っている。取るに足らぬ。それを男も半ば知っているだろう。それでも己の命を全て賭けて対する。 けれでも赤音は、それでも尚、動かなかった。 その手は彷徨っていた。その刀を重いと感じるか、己の一部と感じるか、その間を彷徨っていた。 思い出していた。斬るために刀を握った瞬間思い出していた。あの夜の静止した時間。あの夜の己の生命を全て使い切った一瞬。それだけで愚鈍に呼吸を繰り返す体の重さを感じた。また、刀の重さが戻ってくる。またそれが己の体を離れた鉄に感じる。その手を振るえない。その手でもう一度斬ることを疎んだ。 伊烏を斬った刀で、もう一度誰かを斬るということを憎んだ。 世界中の全てに、そんな価値あるものは存在しなかった。 男が近づく。全ては一瞬のこと。振り上げられた銀光が見えた。鋭敏になった知覚が、その向こうの曇天の空をも見る。灰色の雲は雨が降り出す色をしている。そこで振り上げられた刀は、直ぐに動き出す時の中をこの身を裂こうと落ちて来る。 その一瞬、耳に声が蘇った。 『こんなものに伊烏義阿は――――』 それを聞いて―――― |